大同2年(807)に開坑したといわれ、1,200年の歴史を誇る日本有数の銀山、生野鉱山。産出した銅が奈良の大仏鋳造(752年建立)にも使われたとされる明延鉱山など、兵庫県北部の但馬(たじま)地域には、日本の歴史上において重要な鉱山が点在しています。これらの鉱山は時の権力者の財力となり、江戸時代には佐渡金山(新潟県)、石見銀山(島根県)とともに幕府の財政を支えました。江戸幕府は生野、佐渡、石見に奉行所を置いて、鉱山開発に力を入れました。

『桜もちるに嘆き…、ここに但馬の国かねほる里の辺に…』。これは江戸時代の浮世草子作者・井原西鶴の作品である『好色一代男』の冒頭の一節。「かねほる里」とは生野銀山のことであり、主人公は生野の富豪として描かれています。

また、当時、金(小判)は主に東日本で使用され、銀(丁銀)は西日本で使われていました。これは東の佐渡金山と西の生野、石見銀山の影響でした。江戸時代前半、日本で産出された銀は世界の3分の1を占めたといわれています。
生野に伝わる『銀山旧記』によると、天文11年(1542)に銀鉱脈を発見したことを契機に、但馬守護・山名祐豊が、当時の最新技術を用いて採掘を始めたと記されています。但馬の金と銀は権力者たちにとっての御金蔵でした。織田信長は永禄12年(1569)、木下(豊臣)秀吉に命じて生野銀山を制圧。安土城を築くのは7年後であり、戦略的に重要な施設が生野銀山でした。

豊臣秀吉が全国の金山や銀山から納めさせた運上(営業税)の記録では、銀山では但馬国が6万2千匁で、全国第1位、全国の83%を占めています。金山では但馬国は第6位で、主に銀は生野銀山、金は中瀬金山(養父市)です。

また、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、但馬の鉱山を直轄地とし、生野奉行の間宮直元に命じて、生野の銀山開発に力を入れました。白口の樫木・若林などを開発し、奥銀谷が一気に繁栄したといいます。

永禄4年(1568)、ポルトガル人のドラードが作った「日本図」では、石見国には「銀鉱山群王国」、但馬国には「銀金山群王国」と書いてあります。ヨーロッパから見ると、日本の国は金銀にあふれた黄金の国だったのです。
明治政府は近代化を先導する模範鉱山として、生野鉱山を日本初の官営鉱山としました。フランスから24人の鉱山技師(御雇外国人)を迎えて、西洋の鉱山技術を導入した大規模な近代化鉱山を建設しました。明治5年(1872)には神子畑、明延、中瀬の鉱山も官営となりました。そして、明治29年には三菱の経営に移りました。